戦国時代と京都

戦国時代の京都はどのような雰囲気となっていたのでしょうか。応仁の乱から幕を開けたといわれている戦国時代は、京都もまた、戦火の渦に巻き込まれる事になってしまいました。おかげでそれまでに作られた貴重な寺社などの多くが焼失してしまう事となってしまったのです。その状態が長らく続いたのですが、戦国時代も織田信長が登場したあたりになると、京都も落ち着き始めてきます。織田信長の説明は省略しますが、織田信長の躍進の影には織田信長が濃尾平野を有する経済的に優れた大名だったと言う点を看過してはなりません。将軍継嗣問題に関わる事になった織田信長ですが、織田信長は京都の街の復興にも尽力してくれたのです。また、将軍が住む屋敷だけではなく、公家の屋敷など、京都の復興に大きな力を注いだのが織田信長なのです。織田信長の勢力が拡大するにつれ、京都は再び平穏な時の流れる場所となっていったのです。しかし、織田信長はご存知本能寺の変で家臣であった明智光秀の反乱に遭い、命を落とす事になってしまったのですが、本能寺は今も尚、京都に存在しています。もちろん、当時のものではないのですが、本能寺ホテルなるホテルまでありますので、戦国時代が好きな人はたまらない地名と言えるのではないでしょうか。今の本能寺は場所が異なりますが、それでも織田信長の石碑が建てられていたり、更には織田信長の資料が展示されているなど、戦国時代が好きな人であれば楽しめるものとなっています。また、明智光秀の墓と呼ばれるものも京都にあります。こちらは住宅地の真ん中にあるにも関わらず、京都の案内板などに明記されていますので、実際に探すのはとても難しいものだったりしますし、とてもこじんまりとしたものですが、それでも戦国時代が好きな人にとってはたまらない施設なのではないでしょうか。そしてその織田信長の跡を継いだ形となったのが豊臣秀吉ですね。豊臣秀吉は京都ではなく、大阪を本拠地にしましたので、京都は必然的に公家たちの集う平和な場所へと変貌していったのです。軍事的な意味合いは大阪、京都は平和のシンボル…というように住み分けがなされていったのです。そのため、豊臣秀吉の時代の京都は特に争いもなく、平穏な時が流れていたようです。
しかしそれでも権力者にとって京都は無視する事が出来ない場所です。また、豊臣秀吉は関白という公家の官職をもらっていましたし、何より大阪と京都は目と鼻の先にありますから、京都に足を運ぶ事も少なくなかったのです。中でも圧巻なのが耳塚でしょうか。これは朝鮮出兵で相手の兵士から削いだとされる耳を弔ったものです。今も尚、京都に残されていますので、戦国時代が好きな人にとっては必見と言えるのではないでしょうか。また、豊臣秀吉はなりあがり物でしたから、権威にとても執着していたと言われています。ですから、京都という街を大いに利用したのです。それが関白職への任官に繋がるのですが、豊臣秀吉は京都の街の復興に尽力しましたし、様々な寺社を造営しましたので、その影響力は今も尚、感じる事が出来るのではないでしょうか。戦国時代を終わらせた豊臣秀吉は、京都の街もしっかりと復興してくれたのです。一方で大阪を京都を越える街にしたかったという思いもあったのでしょうね。その思いは今の大阪を見ればよく解るのではないでしょうか。今では大阪は日本第二の都市と言われるほどの街ですが、これは豊臣秀吉の影響が皆無とは言えないでしょう。それは京都という街に追いつき、追い越せと言った気概を持っていたであろう事は容易に想像出来るのではないでしょうか。京都は権力の象徴でしたので、戦国時代には様々な武将が京都に足を運ぶ事になります。応仁の乱もそれが引き金となっている部分もあるのですが、その応仁の乱で壊滅した京都の復興に当たったのが戦国時代の勝者たる織田信長、そして豊臣秀吉というのは、やはり京都の影響力がとても高いものだという事を端的に表しているのではないでしょうか。
ですので、京都というのは戦国時代に於いても決して無視する事の出来ない、とても貴重な場所だったという事なのでしょう。それは大阪という新しいシンボルを作っても尚、消す事の出来ないものだったのです。全てが破壊され、既存の権力が否定された…戦国時代をそのように思っている人もいるかもしれませんが、実状はその逆で、多くの戦国武将が京都を目指し、京都の権力を利用しようとしていたのです。京都を敵に回す、それは朝廷を敵に回すという事です。これは権威の否定と言われている戦国時代であっても大変な話ですので、その点でも京都という街の存在感はとても大きなものだったのです。その点では、京都の街の復興に尽力した織田信長が台頭したのも、ある意味で当然と言えるのかもしれません。その当時から、京都は時代の象徴だったと言えますしね。