室町時代と京都

室町時代の名残はどうでしょう。室町時代というのは、鎌倉にあった政治の実権を再び京都に戻した時代ですから、平安時代以来、再び京都が名実共に時代の中心となった時代です。ですから、室町時代の名残は京都にもたくさん残されているのです。その代名詞と言えば何と言っても金閣寺なのではないでしょうか。金閣寺は時の将軍・足利義満が建立したものです。今現在の金閣寺は再建されたものではありますが、それでも当時の姿を模したものですので、金閣寺がどのようなお寺だったのかというのは多くの人の知るところなのではないでしょうか。室町時代は再び京都が時代の中心となったのですから、京都には様々なものが建立されました。なぜなら、鎌倉時代とは異なり、京都に物も人も集まるようになったのですから、それも当然と言えば当然なのではないでしょうか。また、時代も推移していますので、文明をある程度は進んでいますので、それまでの時代とは異なるものが作られている時代とも言えますし、金閣寺に代表されるように将軍の権威がとても高い時代でしたので、室町時代は様々なものが建てられた時代と言えるでしょう。ですので、室町時代の名残は今の京都でも様々な場所で見る事が出来るのではないでしょうか。しかし、一方で室町時代には京都にとって忘れれない出来事が起きた時代でもあります。そうです、応仁の乱です。応仁の乱は歴史の教科書にすら載っているほどですので、多くの人が応仁の乱という名前くらいは知っているのではないでしょうか。しかしその応仁の乱は教科書では一行程度で片付けられてしまうものかもしれませんが、京都の街にはとんでもない爪あとを残したものなのです。10年以上も続いたその乱戦は、京都の街を文字通り焼け野原にしてしまったのです。ですので、そこで様々なものが破壊されてしまったのです。平安時代や鎌倉時代、室町時代など、応仁の乱以前に立てられた物はほとんどが焼失する事となってしまったのです。都市伝説の類を抜けない話ではありますが、「京都の人にとって戦後というのは、太平洋戦争ではなく、応仁の乱を指す」なんて言葉もあるくらいですから、それだけとても深いものだったという事がうかがい知れるのではないでしょうか。
実際応仁の乱のおかげで室町幕府の権力は大きく低下していまったのですから、応仁の乱というのは、日本の歴史的に見ればただの内戦かもしれませんが、京都の事を考えた時、その爪あとは計り知れないものを残したと言えるのではないでしょうか。応仁の乱は将軍継嗣問題から様々な部分にまで波及してしまったものですが、全国の大名を巻き込み、京都を戦火へと導いてしまった破壊活動です。それが戦国時代の幕開けとも言えますが、それでも応仁の乱がまでは室町時代の栄華の象徴として、京都はとても綺麗な街並みでした。そして活気の溢れる街並みでもあったのです。今でこそ東京が首都ですが、当時は京都が中心です。朝廷もあれば武家の棟梁もいる、それが京都でしたので、何もかもが京都を中心に考えられていた時代とも言えます。物も人も集まる京都だからこそ、文化も栄えました。室町時代生まれの文化はとても多いのですが、そうした文化すらをも破壊してしまったのが応仁の乱と言えるでしょう。しかし、室町時代の良かった点もあります。それは、室町時代は地方の大名が京都に立ち寄る機会が増えて言ったのです。そのため、地元に戻ると多くの大名が京都のような街を目指し、地元の活性化を行ったのです。そのため、各地には「小京都」と呼ばれる地域が増えたのです。また、京都の街並みだけではなく、文化も模倣し始めましたので、日本全国に京都の文化が知れ渡るようになったのです。かつてはそれは商人の役目だったのですが、大名というその土地の権力者自らがそれに着手する事で、我が国の文化は急速に発展を遂げる事となるのです。そうした点はやはり京都の影響力なのですから、決して看過する事は出来ませんよね。しかし、それが皮肉にも各地方の大名の経済基盤を強める事となり。幕府に頼らない力をつける事となって行ってしまったのです。このように、室町時代というのは何かと影響力の強い時代だったと言えるでしょうね。そうした時代が戦国時代を生み、その反動として江戸時代が生まれるのですが、それはまだまだ先の話ですね。それだけ室町時代というのは大きなものだったのです。
そしてその室町時代の時代の中心、それが京都でしたので、京都の役割、そして存在感。それらはとても高いものがあったのです。京都に憧れを持つ大名もいれば、京都を乗っ取ろうと思っていた大名もいましたし、京都と何かとパイプを持とうとする大名もいました。今の時代ほど交通も整備されていない時代でしたので、尚更京都への思いも強まったのかもしれませんが、室町時代の京都というのは、やはり影響力が強かったと言えるでしょうね。

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