鎌倉時代の京都とその名残

鎌倉時代の名残は京都にあるのでしょうか。実は鎌倉時代の名残を京都で見かけるという事は少なかったりします。というのも、鎌倉時代は鎌倉が中心となっていた時代で、京都はむしろ敵視されていました。これは江戸幕府にも言えるのですが、幕府と朝廷というのは異なるものです。ここが歴史の難しい部分でもあるのですが、明治時代に入るまで、我が国の中心は京都でした。これは紛れも無い事実です。京都には天皇もいましたし、その側近である公家もいました。天皇や公家は平安時代には政治を司っていたのですが、鎌倉時代からは武士の時代ですので、政治権力は武士に奪われてしまいましたが、それでも完全に奪われたわけではないのです。ここは話がややこしくなる所なのですが、鎌倉時代以降、武士の頂点である征夷大将軍が政治の実権を握る事になりました。しかし、この征夷大将軍を任命するのは、朝廷、つまりは天皇の役目だったのです。ですから、言うなれば武士の世の中は、武士が天皇の代理で政治をしている世の中でもあったのです。特に鎌倉時代は京都ではなく、鎌倉で政治が行われてしましたので、鎌倉に様々なものが置かれる事になったのです。今の鎌倉が歴史の街として、様々なものが残っているのは鎌倉時代の名残だからなのです。つまり、鎌倉時代は京都は政治の中心地からは外されていた訳ですから、新しく物を作る必要性もなかったのです。そのため今の京都に「鎌倉時代ならでは」なものというのは見かける事が少ないのですね。なぜなら、「鎌倉時代ならでは」なものは鎌倉にたくさんあるのですから。しかし、だからといって何もないというわけではないのです。鎌倉時代も京都は天皇の住む、我が国最大の地域として栄えていましたので、お寺なんかの建立は行われています。
例えば南禅寺。今も尚、京都の街で存在感を放っている南禅寺は鎌倉時代のものですね。国宝や重要文化財に指定されているものも多い南禅寺ですが、この南禅寺は鎌倉時代のものですので、重要文化財や国宝として認定されるのも当然といえば当然の話かもしれません。特に南禅寺の法堂はとても素晴らしい雰囲気となっているのですが、これは残念ならが明治に再建されたものです。こたつの火の不始末で消失してしまったのですから残念な話ですよね。とはいえ、鎌倉時代の名残としてたたずんでいるものもありますので、南禅寺は是非ともチェックしておきたい場所なのではないでしょうか。また、石庭で有名な建仁寺。これも鎌倉時代に建立されたものです。建仁寺もまた、重要文化財に指定されているものを多数有するとても素晴らしいお寺なのですが、その建仁寺が鎌倉時代のものとはあまり知られていないのではないでしょうか。石庭ばかりが目立つ建仁寺ですが、建仁寺は臨済宗のお寺として建てられたものです。当時の情勢では臨済宗のお寺を建てるのはとても難しいものだったのですが、将軍の援助を受けて建立する事となったのです。そんな建仁寺はは、鎌倉時代に建立されたものではあるのですが、応仁の乱や火災などによって鎌倉時代の建物が残されていないのが悔やまれる所です。しかし、鎌倉時代にどのような文化となっていたのかという点は理解出来るでしょうから、とても貴重なお寺と言えるでしょうね。また、東福寺も鎌倉時代のものです。15年という歳月を要したのですが、その名前は東大寺と興福寺のそれぞれ一文字を領して東福寺という名前となっているのですが、東福寺も鎌倉時代の雰囲気を伝えてくれるものです。国宝や重要文化財に認定されているものも多いのですが、東福寺もまた、焼失から再建されたものが多いのが残念な部分です。しかし、鎌倉時代にどのようなものが作られていたのかという点は理解する事が出来るでしょうから、やはり貴重なものと言えるのではないでしょうか。ですので、東福寺もチェックしておきたいお寺と言えるでしょうね。
このように、鎌倉時代の名残を感じさせるものもあるのですが、鎌倉時代は京都の役割がそこまで高いものではなかったという点、また、鎌倉が未整備だったため、鎌倉にお金をかけたという点もあるでしょう。ですので、例えば京都御所のように、新しく権威の象徴として建てられてたというものは鎌倉時代には見当たりません。なぜなら、権威は鎌倉こそが欲しがっていたものです。鎌倉側からすれば、京都の権威を追い越したいという思いもあったでしょうから、京都ではなく、鎌倉にお金をかけるのも当然ですよね。そのため、鎌倉時代の京都は何かと厳しい状況にあったと言えるかも知れません。それでも、京都が賑わっていたという点だけは事実ですし、実際先に紹介したようなお寺も作られていますので、鎌倉時代だからといって京都が焼け野原だった訳ではないのです。政治の中心は鎌倉でしたが、時代の中心は鎌倉時代も京都だったと言えるのですから。