江戸時代の京都

江戸時代の京都はどのような雰囲気となっていたのでしょうか。江戸時代の京都はとても微妙な立場にあったと言わざるを得ません。というのも、江戸時代は江戸、つまり今の東京を中心に政治が行われていたのですが、江戸幕府を開いた徳川家康は歴史マニアと言えるほど歴史に精通した人間でした。ですので、鎌倉幕府や室町幕府と同じ轍は踏まないよう、朝廷をも武士が抑えようとしたのです。かつては幕府が開かれても朝廷は、まさに「聖域」として、武士が何か出来るものではなかったのです。しかし、江戸幕府は朝廷をも抑えようとしたのです。「禁中並公家諸法度」といった制度はまさにそれですよね。ですので、江戸時代の京都というのは江戸からの圧力に耐えなければならない日々だったとも言えるでしょう。それでも街の活気は素晴らしいものがありました。江戸で政治が行われているとはいっても、まだまだ日本の中心は京都でしたので、京都の盛り上がりはとても素晴らしいものでした。また、西の地域の監査としての性質が加えられたのも江戸時代です。東京から中国四国、九州地方を監視するのは、当時のインフラではとても難しいものでした。どうしても時間がかかってしまいますしね。ですので、京都はそうした西国の監視役としての性質が加えられる事となったのです。江戸時代の名残として二条城が挙げられますが、二条城はそもそもそのような理由から作られたのです。また、大名の監視だけではなく、朝廷などの監視も兼ねていましたので、江戸時代の京都は何かと微妙な雰囲気だったと言えるかも知れません。何をするにも武士の許可が必要だったのですから、かつてに比べればどうしても不便を感じるのも仕方ない話ですよね。しかし、一方で江戸時代は戦乱の無い時代でしたので、江戸時代に立てられたものは大抵残されているのも特徴です。これは先に話に上った二条城もそうです。二条城は天守閣はありませんが、それ以外のものはしっかりと残されています。御殿などは当時の雰囲気を感じる事がで来ますので、とても貴重なものとなっていますし、また、高台寺なんかも残されています。これは豊臣秀吉の妻だったねねのお寺です。江戸時代に建立されたこのお寺は今も尚残されておりますし、豊国寺という豊臣家を祭ったお寺も残されていますね。これは江戸時代が平和だったからこそと言えますよね。
しかし、江戸時代は平和な時が流れていた一方で、幕末になると急激に慌しくなっていきます。それは時代の節目ですので、その動乱は凄まじいものがあったのですが、それは京都でも例外ではなかったのです。かつて一度たりとも行われていなかった京都御苑ですら戦闘行為が行われたほどです。今でもその弾痕が残されているのは様々な思いが去来するのではないでしょうか。また、幕末の志士として人気を誇る坂本龍馬に関するものもたくさん残されていますし、幕末の志士たちを祭った墓もありますので、京都に足を運ぶ祭には、幕末の歴史を知っておくだけでその楽しみが何倍にもなるものなのです。また、幕末は比較的最近という事もありますので、幕末関連のものは残されている可能性がとても高いのです。その点も嬉しい部分と言えるのではないでしょうか。なぜ時代の中心であった江戸ではなく、京都にも様々なものが残されているのか。それは幕末の気風を理解しておく必要があるでしょうね。というのは、幕末は江戸幕府への不満が高まる時期でもあります。しかし、幕府に代わって何かしてくれる武士が居なかったのも事実。そこで武士ではなく、朝廷を…という運動があったのです。ですから、江戸時代の前半はバタバタしていた時期もありましたが、その後は比較的安穏とした時代だった京都なのですが、幕末になると急に慌しくなるのです。それは朝廷側も、武士とどのように付き合っていくのか。江戸幕府とどのように付き合っていくのかという事が問われるようになりました。そのため、京都には見廻り組と呼ばれる集団も現れるなど、一時的に治安が乱れた状態となってしまっていたのです。ですので、幕末という激動の時代は、京都もまた、とても大きなうねりの中に身を投じる事になったのですが、戦火というほどのものはありませんでしたので、その部分で今も尚、様々なものが残されていると言えるのです。
京都の街は当時から格式の高い街として知られていましたので、そこでの争いはご法度とも言われている一方、激動の中ではそのような格式など関係ないという人など、実に様々な人で入り乱れていました。しかし、江戸時代の終わりと同時に、天皇が江戸に入りますので、この時に、京都から江戸に中心が移る事となったのです。「正式文書がないから、未だに日本の首都は京都だ」と冗談めかして言う人もいますが、明治の始まりと共に、京都は行政地区から、伝統地区に変わったと言えるかも知れませんね。